【野球観戦記】Feel It!

ファイターズを中心に、野球ファンとして感じた事を綴っていきます。観戦は関東の試合が中心。

NPBにおける第1回オールスターゲームを振り返る

新型コロナウイルス感染拡大に伴い、プロ野球の開幕の7月以降へのずれ込みとオールスターゲームの中止の可能性が報じられています。

 

”中止”というあまり好ましくない形でオールスターゲームが取り上げられているわけですが、そもそもNPBオールスターゲームはどのような歴史を持っているのでしょうか。

 

調べてみると、日本プロ野球オールスターゲームは1951年以来69年の歴史があり、今年のオールスターは記念すべき70回目の開催となる予定でした。

 

そこで、今回は記念すべき第1回オールスターゲームとなる1951年のオールスターゲームについて簡単に振り返ってみたいと思います。

 

なお、当投稿にあたってはベースボールマガジン社による「プロ野球70年史」(以下、「資料」と記載)を中心にネット情報も用いて情報収集にあたりました。

 

 

1.1951年のプロ野球と第1回オールスター
2.ファン投票選出選手
3.試合結果
4.最後に

 

1.1951年のプロ野球と第1回オールスター

1951年のプロ野球は、2リーグ制開始2年目のシーズンであり、セリーグは巨人が、パリーグは南海が優勝し、日本シリーズは巨人が制したシーズンでした。

 

また、この年は開幕前にGHQによる指導の下でプロ野球機構とコミッショナー制度がつくられるなど、現在のNPBにも繋がる球界の組織構造が出来上がった年でもありました。

 

この年の各成績を見ていくと、セは水原監督率いる巨人が川上哲治(MVP,首位打者)、青田昇本塁打と打点の2冠)、松田清最優秀防御率,新人王)などなど、充実の戦力で2位の名古屋(現・中日)に18ゲーム差をつける圧倒的な大差で優勝。6月にはウォーリー与那嶺が加入して、セーフティーバントや猛烈なスライディングで球界に”革命”を起こしたと言われています。巨人以外には、2年目の金田正一国鉄)が自身初のノーノー達成、フォークの神様・杉下茂(名古屋)が最多勝などこの時代のスター選手の活躍も多々見られました。

 

パは南海(現・ソフトバンク)が山本一人選手兼任監督が選手としてMVPを受賞するなど兼任ながら大活躍をみせ、2位の西鉄(現・西武)に18.5ゲーム差をつけてこちらも圧倒的な差で優勝。一方で東急(現・日本ハム)の大下弘はチームが6位(当時は7球団制)に沈む中で打率と本塁打の2冠に輝きました。

ファイターズファンとしては、数年前に東映フライヤーズの復刻ユニフォームがありましたが、いつか東急フライヤーズの復刻もやってほしい(さすがに古すぎるか)

 

そして日本シリーズでは巨人が南海を4勝1敗で下し、日本一に輝きました。

このような1951年のプロ野球ですが、先述の通りに、日本プロ野球史上初めてオールスターが開かれた年でもあります。

従来の1リーグ時代の球界では、オールスターゲームのような扱いで東西対抗戦が行われていました。1950年に2リーグ制となったことによってオールスターゲームが開催されるかと思いきや、セとパの間でギクシャクしていたことがあり、2リーグ制2シーズン目の1951年にようやく開催されるようになったわけです。資料からは確認することができませんでしたが、恐らく、シーズン前にプロ野球機構とコミッショナーができたことによる影響が大きかったのではないでしょうか。

 

2.ファン投票選出選手

資料によると、記念すべき初のオールスターゲームの選出選手は以下の通りです。

セリーグ

投手 別所毅彦(巨人)

 1979年野球殿堂入り。1949年の「別所引き抜き事件」で巨人入り以来、エースとして君臨。翌1952年には33勝でMVP。

 

捕手 荒川昇治(松竹)

 前年に松竹ロビンスの「水爆打線」の8番捕手としてベストナインを獲得。リーグ優勝に貢献。盗塁数も多かった”走れる捕手”。

 

一塁手 川上哲治(巨人)

 言わずと知れた「打撃の神様」。1965年野球殿堂入り。この年は事情によりシーズンが途中打ち切りとなった為に97試合・424打席しか出場していないが、年間通じて僅か6三振のNPBシーズン記録を樹立。

 

二塁手 千葉茂(巨人)

 1980年野球殿堂入り。巨人第一次黄金時代の名セカンドであり、”猛牛”の異名を持った。引退後に近鉄の監督に就任するが、チーム名の「バファロー」は千葉監督の現役時代の相性から名付けられた。

 

三塁手 藤村富美男阪神

 ”物干し竿”と呼ばれた長いバットで活躍した初代ミスタータイガース。1974年野球殿堂入り。前年に首位打者を獲得し、この年も.320の高打率を記録。セリーグの最多得票獲得。

 

遊撃手 平井正明(巨人)

 前年まで在籍していた西日本が西鉄に吸収合併されたことに伴い巨人に移籍。(西日本を巡っては相当の混乱があったそう)当時としては珍しい”打てる遊撃手”としてこの年に.280を記録。

 

外野 青田昇(巨人)

 2009年野球殿堂入り。この年は本塁打と打点の二冠王に輝いた。巨人第一次黄金時代の主力の一人。

 

外野 小鶴誠(松竹)

 1980年野球殿堂入り。前年に”水爆打線”の主力としてNPB記録の161打点を記録し優勝に貢献。前年までのラビットボールが廃止され、この年は成績を少し落としたが97試合で24本塁打を記録。

 

外野 岩本義行(松竹)

 1981年野球殿堂入り。前年に史上初のトリプルスリーを達成して松竹の優勝に貢献した。この年も2年連続となる30本塁打超え。

 

 

パリーグ

投手 荒巻淳(毎日)

 1985年野球殿堂入り。前年に最多勝最優秀防御率・新人王の活躍で毎日オリオンズの日本一に貢献。しかし、この年のオールスター出場は無かったとのこと。

 

捕手 土井垣武(毎日)

 長年阪神を支えてきた名捕手。前年に毎日に移籍すると、移籍1年目に日本一に貢献した。パリーグの最多得票獲得。

 

一塁手 飯田徳治(南海)

 1981年野球殿堂入り。南海の主軸として打点王を獲得し、この年の優勝に大きく貢献した。打撃のみならず走攻守三拍子揃っており、この年は19盗塁、翌年から6年連続40盗塁以上を記録。

 

二塁手 山本一人(南海)

 1965年野球殿堂入り。選手兼任監督ながらこの年のMVPに輝くなど大活躍を見せた。監督としてプロ野球歴代通算最多勝を記録。

 

三塁手 中谷順次(阪急)

 前年に三塁手ベストナインを受賞。この年も打率.293をマークした。現役晩年には西鉄に移籍し、黄金時代に貢献。

 

遊撃手 木塚忠助(南海)

 この年には3年連続となる盗塁王を獲得した南海の”韋駄天”(翌年も盗塁王を獲得)。守備にも優れ、南海の内野陣は飯田らを含め”百万ドルの内野陣”と呼ばれた。

 

外野 大下弘(東急)

 1980年野球殿堂入り。戦後の球界を支えた国民的なスターで、この年は打率と本塁打の2冠王に輝いた。

セネターズ→フライヤーズと現役時代の背番号は3であり、ファイターズにとっての元祖・背番号3。このチームで最初に日本の国民的スターが背負った番号を、現在は台湾の国民的スターが背負ってると考えると胸が熱くなりました。

 

外野 別当薫(毎日)

 1988年野球殿堂入り。前年にセの岩本(松竹)と同じく球界初のトリプルスリーを達成。この年はラビットボール廃止の影響で成績は落とすも、打率3割を記録した。

 

外野 飯島滋弥大映

 この年も含めて3年連続でベストナイン受賞の名外野手。引退後は東映フライヤーズでコーチを務め、大杉勝男に「月に向かって打て」と指導したことで知られる。

 

3.試合結果

 

この年は第1戦を甲子園で、第2,3戦を後楽園で行いました。

現在のようなお祭りムードは無く、両リーグの威厳をかけた真剣勝負が繰り広げられたようです。

 

第1戦 1951年7月4日(水)

セ2-パ1

雨の中での試合だったとのこと。

NPB公式サイトによると入場者は48671人。試合時間は僅か1時間57分。

初回にセリーグが2番・千葉の二塁打、3番・岩本の内野安打でチャンスを作ると、5番・川上がパリーグ先発の江藤(南海)からタイムリーを放って1点先制。

6回には相手のエラー絡みで加点し、2-0としました。

セリーグは投げては別所ー金田ー杉下が3イニングずつ繋ぐ豪華すぎるリレー。7回に杉下がパリーグの5番・中谷にタイムリーを浴び1点差にされますが、守り切って2-1でセリーグが記念すべきオールスター第1戦に勝利しました。

勝利投手:別所(巨)

敗戦投手:江藤(南)

MVP:川上(巨)

 

第2戦 1951年7月7日(土)

パ2-セ4

セリーグが連勝。

入場者は39060人。試合時間は2時間10分。

2回にパリーグが7番・土井垣のタイムリーで先制。連投のセリーグ先発・別所を捕えます。

さらに4回にはセの二番手・中尾(巨)から6番・飯島のタイムリーで加点し、試合の主導権を握ります。

 

しかし、7回にセリーグ打線がパリーグ三番手の米川(東急)を捕えます。

川上・藤村の連打でチャンスを作ると、代打・野口明(名古屋)が2点タイムリスリーベースで同点。さらに続く投手・金田正一の打順で”初代ミスタードラゴンズ”西澤(名古屋)が代打で登場し、ツーランホームランを放って一気に逆転に成功します。このホームランがオールスター史上初本塁打となりました。

なお、このホームランにあたっては、金田続投を考えて代打を出すことを渋った天知監督(名古屋)以下首脳陣に対して、”猛牛”千葉が「勝つ気があるなら代打を出せ」と怒鳴り散らして西澤を代打させた逸話があります。(資料より)

当時のオールスターの真剣勝負ぶりを象徴するエピソードの一つと言えるでしょう。

その後のセリーグのマウンドには杉下が立ち、パリーグ打線を抑えて勝利投手となりました。

両チーム合わせて、別所・金田・杉下・林(大映)の4名が連投をしています。

 

勝利投手:杉下(名)

敗戦投手:米川(東)

MVP:野口(名) 

 

第3戦 1951年7月8日(日)

セ3-パ4

入場者は40378人。試合時間は僅か1時間51分。

初回はセリーグが前日までの勢いそのままにパリーグ先発の佐藤(大毎)を捉えて2点を先制。

しかし、2回にパリーグの7番・飯島がセの先発・藤村隆男阪神所属。藤村富美男実弟)からホームランを放ち1点差に。5回表には中谷が三富(名古屋)から一発を放って同点に追いつきます。

ところが直後の5回裏にセリーグ先頭の千葉が野村武史(毎日)からホームランを放って再度勝ち越し。しかし直後の6回表にはパの先頭・木塚が三塁打でチャンスメイクすると野選の間に再び追いつきます。

 

そして8回表にパの3番打者・飯田がセリーグ四番手の藤本(巨)から本塁打を打ち、ついに逆転。7回途中からマウンドに上がっていた林義一大映)が9回まで無失点に抑えて勝利投手となりました。

 

勝利投手:林義(大)

敗戦投手:藤本(巨)

 MVP:林義(大)

 

3試合通じてのMVP表彰:杉下(名)

 

 4.最後に

  第1回オールスターゲームを振り返って参りましたが、どの試合も接戦でスコアを振り返るだけでも非常に見応えがありました。観客動員も、3試合いずれも大盛況であり、当時の野球ファンにとって待望であったリーグ間の勝負の注目度の高さが伺えます。

 69年も前に繰り広げられた熱戦。当時プレーした選手達は、オールスターゲームが70回目を迎えるほどに続けられると想像できたのでしょうか。

 もし今年のオールスターゲームが中止となった場合、この第1回オールスターゲーム以来、初めての開催中止となります。一方で、昨年までの69年間にわたって一度も途切れることなく毎年開催されたことに驚かされます。

 今年のプロ野球がどのような形になるかわかりませんが、今年であれど、来年であれど、次のオールスターゲームが次の70年に繋がるような熱気ある試合になることを期待したいです。

 また、終戦直後の状況と現在の状況を比較することは適切ではないとは思いますが、野球がこれほどの期間にわたって中止されることは戦時中以来のことです。第1回のオールスターゲーム出場選手の中には、戦後の球界を盛り上げ、娯楽に飢えた国民の心を掴み、国民的なスターとなった選手が数多く見られました。

 現代の、野球に飢えたファンの心を掴むスターの登場を待ちわびながら、プロ野球の再開を楽しみにしたいと思います。